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日本人の反応

GHQ"

 OSSの調査によると、戦争中の宣伝は、一般の日本人にはあまり効果がなかったものの、日本の上層部、インテリ層には少なからず影響を与えていた。(19)占領下では宣伝政策の効果は絶大で、当初は多くの日本人が「罪の意識」がないことに苛立っていた(20)ものの、新聞に関しては、早くも占領から1ヶ月あまりでアメリカおよび連合国の批判はほとんど消えていた。

 占領軍の宣伝政策の特徴として、隠匿性が挙げられる。検閲違反の文章の削除などは、その痕跡が分からなくされ、あらゆるメディアの宣伝はGHQの存在が隠されていた。情報の出所が敵国であるアメリカではなく、同胞である日本人が言っているということは決定的に重要だった。さらにそれらの宣伝に対して、もし疑問を抱き、反論を唱える人が現れても、それらは検閲の網にかけられて、日本人一般の目に届かなかった。
 アメリカの宣伝政策は、国会でマッカーサーに対して感謝決議がなされるほど世界の占領史上比類ない成功を遂げた。


大衆の反応

1949年8月号の中央公論に渡邊一夫氏が「忌むべき郷愁」と題してこう述べている。  「過去の空しい迷信になお恋々たる少数の人は別として、大多数の国民にとっては、天皇の神性の否定とともに、天孫降臨にともなうさまざまの神話も、和気清麻呂の忠節も、楠正成の美談も、ことごとく馬鹿らしいものに思われ始めた。」

 また同じ紙面で「日本敗れたれど」という映画を見に行った時の周りの人々の様子を伝えている。内容は渡辺氏によれば「日本国民は、連合国の指導に感謝しなければならないが、自らの努力がまだまだ足りないこと、公正な民主化のために、また文化建設のために、まだまだなすべきことが多い旨を教える宣伝映画であった。」とあるように、CIEの宣伝映画の一つであったと思われる。

 そしてそれを見た日本人の反応は「観客は、悪戯を見つかって咎められた子供のやうに、照れ臭ささうに笑った。」と述べている。さらに「東條元首相が獅子吼する場面が現れた時に、一斉に起った笑ひ声」とあり、「他の場面では、殆ど笑ひ声は聞えず」しかしまた東條元首相が再び出てくると「笑ひ声しか聞こえなかった。」とある。

 ただ別な日には、日本の特攻機が活躍する場面で「激しい拍手」が起きたとあるように、必ずしもすべての人が占領軍に屈服していたわけではないようだ。

こうした宣伝映画に対する日本人の反応について土屋由香氏は、
「視聴者が顕著な興味を示した内容は、アメリカの科学技術・スポーツ(特に野球)、レクリエーション(特にスクエアダンス)の三分野であった。これに比して、明らかな政治的・教育的メッセージを含んだ映画は人気が無かった。」(21)という。

 時代が下って1956年7月3日付朝日新聞には、「説得手段としての映画」と題する記事があり、ここで先に挙げたと同じ「日本敗れたれど」を占領期中に見た子供たちの反応が書いてある。

 『小・中学生にこの映画をみたあとの感想文を書かせてみたら「特攻隊が勇しかった」「兵隊さんがかわいそう」「日本をばくげきしたアメリカがにくらしい」などという、予想と正反対の意見が続出』したとある。

 これは土屋氏の言うように、「明らかな政治的・教育的メッセージを含んだ映画」は効果が薄く、逆にこの子供たちのように、反発を受けることもあったということだろう。あるいは子供らしい率直さから出たものだとも考えられるが。


知識人、文化人の反応

作家の武者小路実篤は『新生』(1946年新年号)で「マッカーサー元帥に寄す」でこう述べている。
「私は国民の多くが、敗戦後反って自由を得られ、生活の安定の希望を得られ、人間らしく取り扱われるようになったので負けてよかったと思っていることを告白します。」

 1946年3月「新日本文学」が創刊されたが、この時「文学者の戦争責任追及」が提案され、採決されている。これを受け中央委員に選ばれた小田切秀雄が『新日本文学』の6月号で、25名を、戦争責任を負う文学者として指名している。該当者の中に河上徹太郎、小林秀雄、亀井勝一郎、佐藤春夫、武者小路実篤、尾崎士郎らが挙げられていた。


アメリカ側からみた反応

これは1949年8月号の中央公論が米誌フォーチュン紙上で起きたフォーチュン誌とマッカーサーとの論戦を掲載したもの(22)で、まずフォーチュンの「日本における二十億ドルの失敗」と題した記事に、こう述べてある。

「日本の政治的改革は有望にその緒に就いている。小村落の古風な生活や、人工稠密な都市の大衆生活習慣の無数の細目についても、慣習の外皮が破砕されている。」

 一見ひどい話に聞こえるが、この記事の全体の論調は日本に好意的で、これは日本に対する同情を込めた皮肉である。逆にGHQに対しては、タイトルから分かる通りかなり手厳しい内容となっている。そのためこれにマッカーサーが「占領政策批判に答う」と題する論文で反論したのである。その中に、

「戦争と敗戦による荒廃、および日本の過去から傳わる神話、信仰、傳説に對する民衆の信頼の不信化によって残された精神的眞空状態を充たすために、占領當局は人間の行為における正邪の新しい全く異なった諸概念と、無上にして不変なキリスト教の諸原理および倫理に基づく生活方式の知識を日本國民に理解せしめた。」

とあり、本論「CIEの設立と情報政策の形成」で述べたこと裏書しているのが見て取れる。

 さらにマッカーサーの米議会証言録(23)、これは「自衛戦争」、「12歳の少年」発言などでよく知られるものだが、その中で、日本での占領政策の成果として挙げている言葉は以下のようなものがある。

「日本人は米国人の生き方だけでなく、米国人の個性をも賞賛し、尊敬していた。」

「日本では、基本的な考えを植え付けることができる。日本人は、柔軟で、新しい考えを受け入れることが出来るほどに、白紙の状態に近かった。」

「極めて孤立し進歩の遅れた国民が、米国人なら赤ん坊のときから知っている自由を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味だ。」

などがあり、今見ると噴飯ものだが、当時の日本人のマッカーサーに対する見方は違っていた。マッカーサー解任発表の翌日に掲載された朝日新聞1951年4月12日社説では、

「われわれは終戦以来、今日までマックアーサー元帥とともに生きて来た。(中略)日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていくことを喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった。」

 占領政策はこうして成功を収め、GHQは次第に対ソ政策へ重心を移していった。


(19)エリス・M・ザカリアス(新岡武訳)『日本との心理戦―米国海軍情報将校の手記』日刊労働通信社、1958年

(21)前掲『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』160-163項

(22)『占領政策批判に答う』(「中央公論」64(8)1949.8)

(23)公聴会の正式な題は「極東の軍事情勢とマッカーサーの解任」(Inquiry Into the Military Situation in the Far East and the Facts Surrounding the Relief of General of the Army Douglas MacArthur from his Assignments in that Area)。1951年5月3日から5日にかけて、上院が召喚し非公開で開いたもの。原文は米国立公文書館の上院文書RG46。
マッカーサー米議会証言録はネット上でも(http://www.sankei.co.jp/seiron/maca/2003/maca/MacArthur2.html)で原文が全て掲載されており、一部日本語訳もつけられているものが見られる。

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