ここでは遊牧民族・騎馬民族の文化的特性・民族的気質について見ていきたい。「騎馬民族征服説」で有名な江上波夫は、「騎馬民族とは馬に乗るか・乗らないか、馬を持っているかいないかというよりもその生き方」のことだとしている。
騎馬民族の根底は遊牧である。肉を食べる、血を飲む、犠牲を捧げる、去勢をする、宦官がいるなど、遊牧民族ならではの生活習慣は幾つか挙げられるが、遊牧の生きかたというのは環境と家畜しかない。
そのため他文明に巧みに吸収・同化していくすべを習得していった、というのが江上の主張である。つまり遊牧民の特性は、土地所有の概念を持たないが故の、環境への順応性と適応力にあるということだ。
遊牧民にとって草原はみんなのものである。遊牧民は乾草を作らない・草を刈らない。そもそも土地の所有と言う概念がない。したがって草を独り占めして溜め込むことはしない。そのため彼らは十年に一度くらいは家畜の大半を失うような危機に晒される。この時が民族の大移動の原因になる。
掠奪を始めた遊牧民は最初に農耕民を相手に進攻・掠奪を繰り返した。しかし、相手が防衛線をはり防砦都市・長城等で対抗するようになると、単純な武力だけでは限界がある。ではどうしたか。以下は騎馬民族征服王朝成立の過程で、
1.長城地帯の交易場(関市)の外側にモデル都市、城市を作る(自分達が住む町ではなく、政治的亡命者・手配中の犯罪人・失業者等を収容)
2.そこでは税金を本土より少なくして全ての人材に職を与える。(自分達にできないことをやらせる)
3.知識人や有能な人材を優遇。宗教も自由・平等にする。
4.外交的にも文化的にも攻勢になり情報センター化する。
5.軍隊もそこの母胎が騎馬民族であることを伏せ、傭兵化する。
6.こうなると、農耕民族も怖がらなくなって平和共存できるようになると考える。
7.こうして、モデル都市が遊牧騎馬民の戦士階級と在地の地主を貴族階級とする、新しい都市国家=征服王朝へと発展。
8.つぎに、農耕都市文明地帯の中心部に近い場所に本拠を一つ作る。
9.同じことをする。
10.次にまた中心部に近いところへ動く。
11.同じ事をする。
12.最後には都へたどり着く。
13.征服王朝国家の完成。
それまでを悠々として鎮撫しながら行っていく。中国の歴史の3分の1くらいはこのような征服王朝と言える。
このやり方は伝統的で、チンギス・ハーンを筆頭に、ダリウス王のペルシア帝国、カニシカ王のクシャン、カリフ時代のアラブ、アクバル帝のムガールといった世界帝国をつくったのはほとんどみな遊牧騎馬民族である。
はじめはわずか一握りの仲間である。突厥碑文に書いているように「われわれは最初7人だった。そして70人になった、そして1000人になった。一代にして1万の兵を持つようになった、その次には10万になった。そして大きな国ができた」と。
江上氏は、農耕民族は土地に縛られているため保守的、固定的である一方、騎馬民族は柔軟で、場所にとらわれず好奇心が強いという違いがあると述べている。どんな文化も人材も民族も血も関係なく必要であれば取り込んでいくし、生産様式も変え、民族としてもその土地に溶け込んでいくからだ。
それが、頭脳民族の本質であり、、農耕民族だけでは説明できない現代日本人の民族的気質と初期日本の統合過程に大きく現れているのだという。
戦後間もない1948年、天皇家が大陸から渡来し、日本を征服したという大胆な「騎馬民族征服説」を説を江上氏が唱え、一躍時の人となったのは多くの方がご存知の通り。
現在では氏の論法の強引さや矛盾が指摘され、また考古学的観点からも検証や発見が進み、学説としては非常に分が悪い位置に追い込まれている。
ただ説の正当性はともかく、政治的・社会的な衝撃は大きかった。
私のようなアマチュア歴史愛好家の話の種になり、政治的には左右両陣営の思惑なども絡みながら、そのスケールの大きさに比例するかのように日本中を騒がせた。
私自身は騎馬民族は来たかもしれない、と思っている。ただ江上氏が言うように、「騎馬民族の王侯貴族が組織的な騎馬軍団を率いて日本にやってきて征服王朝をたてた」ということはないだろうとも思う。
日本ではよく狩猟民族と農耕民族というたとえを使う。ところが事実は日本本土では食料採集の時代が長く、農業が始まるのは2400、500年前で世界的に見てきわめてめて遅かった。
その日本の農業は、諸外国の農業が古来から植物栽培と畜産の二本立てであったのに対して食用家畜を持たない「非畜産農業」であったという特徴を持っていた(我々が「農業」という言葉から直ちにイメージされるのは、未だに植物栽培農業であることを考えていただきたい)。
このことが日本文化に独特の性格をもたらしている、と考えれば、道筋は違っても、江上氏の言う農耕民族プラスアルファの性質を持つということの答えが見出せないだろうか。