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裏政治史

政治史

第二次大戦後、ヨーロッパで生じた「新しい情勢」、すなわち東西冷戦の構図は占領下日本にも波及し、昭和23年(1948)1月には米陸軍長官ケネス・C・ロワイヤルが、ソ連要因に照らして「日本を反共の砦に」と演説するまでになった。この年から26年にかけてアメリカの対日占領政策は転回していく。

左翼陣営からは逆コースと名付けられる経済復興の道である。

この転回の中心を担ったとされるのが、ACJ(アメリカ対日協議会、対日理事会とは異なる)という非公式団体の存在である。
ACJが結成されたのは、1948年6月。
設立の発起人は、戦前、駐日大使をつとめ、1944年から45年まで国務次官の要職にあったジョセフ・グルー、グルー駐日大使時代の参事官ユージン・ドーマン、「ニューズウィーク」外信部長ハリー・カーン、投資会社の顧問弁護士ジェームズ・カウフマン、元国務次官ウィリアム・キャッスルらで、委員長はカーンである。

1944年5月、グルーが極東局の局長に就任すると、ドーマンは、傘下のIDACFE(極東に関する部局間地域委員会)に加わった。
ここで作成される占領問題に関する文書が、国務省の政策の根幹である。翌45年2月には、グルーの代理人として、日本降伏後の対日占領計画を練っていたSWNCC(国務・陸軍・海軍三省調整委員会)に属するSFE(極東小委員会)の委員長に推された。

ACJの設立目的について、カーンは、「(アメリカの)大衆を啓蒙し、勝利を確かなものとするため、諸問題を解決し、トルーマンを支援することだ。」と、公式声明で述べている。
極東にアメリカ製品や資本を広めようと爪を研ぐ実業界や、そのおこぼれにありつこうと舌なめずりする政府高官たちには、カーンの真意はよく理解され、支持を受けた。

カーンは「ニューズウィーク」の国際欄で筆を奮い、公職追放された日本の財界人たちを「もっとも活動的で、有能かつ教養ある国際人」(1947年1月27日号)と賞賛し、「アメリカの再建計画と共産主義封じ込め政策の一環として、日本を極東の工場にする機会は消え失せるだろう」(同年6月23日号)と、GHQのニューディール派らの政策を糾弾した。

またトルーマン政権の「逆コース」を戦略的に理論づけたのは、ソ連封じ込め戦略を提唱した国務省政策企画局長ジョージ・ケナンであるが、このケナンをはじめとするワシントン当局に対して、ACJは政治力を駆使して、影響力を及ぼしていた。

ただこれらはいわば表の顔で、彼らには「ドーマン機関」というもうひとつの組織があった。
ACJの活動は、「逆コース」が固まった1953年初頭に停止したとされている。だが、その後もカーンたちの活動は終っていなかったようだ。

日本の戦後史には数々の疑獄事件があり、そこにG2、CIAなどの工作があったらしいことはまず間違いないだろう。
保守政権の存続と発展に賭けたACJとドーマン機関という組織の軌跡を見ていくと、彼らの人脈が日本に深く根を張っていたことがわかる。

ドーマン機関は1945年11月ニューヨーク・マンハッタンの「真珠商会」で結成された。ACJの発起人でもあるドーマンの名を冠したこの組織には、彼のほかに、カーン、カウフマン、そして「真珠商会」の経営者である日系二世ケイ・スガハラといった面々が名を連ねていた。彼らは、日本における「天皇制」の維持、軍の再構築、財閥の復興を掲げて団結したのだった。

戦時中OSS(戦略情報局、CIAの前身)に属していたスガハラは、戦後、ドーマンの下で働くようになり、旧児玉機関を再編成して、中国本土に隠されていた500トンのタングステンを市価の半値以下で、密輸した。これを市価の6割で国防総省に売却したCIAは、そこで得た差額を対日工作の資金に充てたという。このあたりのいきさつは萬万報の園田義明氏の記事Wの衝撃に詳しい。

注目すべきは、彼らの活動の中心には、必ずといってよいほど、オーガナイザーとしてカーンの姿があったことである。

ここで興味深い著書を紹介したい。ティム・ワイナー著『CIA秘録』(文藝春秋)である。この上巻第12章に、
「それから7年間の辛抱強い計画が、岸を戦犯容疑から首相へと変身さえた。岸は『ニューズウィーク』誌の東京支局長から英語のレッスンを受け、同誌外信部長のハリー・カーンを通してアメリカの政治家の知己を得ることになる。カーンはアレン・ダレスの親友で、後に東京におけるCIAの仲介役を務めた。岸はアメリカ大使館当局者との関係を、珍種のランを育てるように大事に育んだ。」という記述があるのだ。

朝鮮戦争後の50年代半ば、アイゼンハワー政権下のアメリカは、国務長官ジョン・フォスター・ダレスとCIA長官アレン・ダレスの兄弟主導で対ソ連「冷戦政策」に舵を切り、それまでニューディール派を重用したマッカーサーGHQ司令部の日本政策をも軌道修正させ、日本に「反共・親米派」の保守政治家を誕生させた。

そしてその象徴が、A級戦犯容疑で収監された巣鴨プリズンから釈放されて8年後に首相の座にまで上り詰めた岸信介元首相ではなかったのか。さらにその工作に重大な役割を果たしたのが、件のハリー・カーンであったのではないか――。

ニューヨーク・タイムズ記者のティム・ワイナーは、入手した60年に及ぶCIAの公式記録をはじめ、ホワイトハウス、国務省の封印が解かれた秘密文書を精査し、10人の元CIA長官を含む情報機関と外交当局関係者300人以上とのインタビューを行なったうえで、本書を著した。しかもインタビューに関しては、すべてオンレコである。つまり、本書が紹介するCIAによる秘密工作はすべて「事実」ということだ。

ハリー・フレドリック・カーンのパーソナル・データ。

1912年、コロラド州デンバー生まれ。ハーバード大学卒業後の32年、当時、モルガン、メロンなど大財閥と近かったアスクー家が保有していた『ニューズウィーク』に入社。太平洋戦争開戦翌年の42年、同誌の戦争報道部長に就任。戦後の45年に外信部長に就いている。

カーンは国務省内の反共グループに人脈を築いたが、その中心がアイゼンハワー政権の国務次官で、日米開戦時の駐日大使だったジョセフ・グルーである。そしてグルーを通じて、当時の国務長官フォスター・ダレスと知己となり、さらには後にCIA長官になるアレン・ダレスを知った。国務長官就任前のジョン・フォスター・ダレスは50年10月、朝鮮戦争勃発直後にピョンヤンを占領した国連軍視察の帰途、日本に立ち寄ったが、同行したカーンのセッティングによって岸と会っている。

一言で言えば、岸信介は冷戦政策を推進するダレス兄弟のお眼鏡に叶ったのだ。 本書には、以下に紹介する2006年に開示された国務省声明も紹介されている。「(1958年から68年までの間)アメリカ政府は、日本の政治の方向性に影響を与えようとする4件の秘密計画を承認した。<中略>アイゼンハワー政権は58年5月の衆院選挙の前に、少数の重要な親米保守政治家に対しCIAが一定限度の秘密資金援助と選挙に関するアドバイスを提供することを承認した。援助を受けた日本側の候補者は、これらの援助がアメリカの実業家からの援助だと伝えられた。」

この声明を紹介したうえで、著者のワイナー記者は、次のように書いている。「CIA、国務省、及び国家安全保障会議関係者と私が行ったインタビューによれば、4件目は岸に対する支援である。」――。

第2次岸政権下の58年総選挙で、岸信介元首相がCIAから秘密資金援助を受けたと断じているのだ。
同書では、岸の他にも、東条英機内閣の蔵相を務めた岸の盟友、賀屋興宣もまた58年総選挙で国会議員に選出された直前もしくは直後からCIAの協力者であったこと、さらに賀屋は59年2月にワシントン郊外のラングレーにあるCIA本部を訪れ、アレン・ダレスと面会している事実を明らかにしている。

それだけではない。岸の弟の佐藤栄作(当時蔵相)が、58年7月25日に在京アメリカ大使館のS・S・カーペンター1等書記官と会談した際、共産主義との闘争を続ける日本の保守勢力に対し、アメリカが資金援助をしてくれないだろうかとの打診をしてきたことを、当時のグラハム・バーンズ国次官補宛のダグラス・マッカーサー駐日大使の公電に添付された「カーペンター覚書」は明かしている。これらの事実は、すべて07年公開の国務省文書に記されているのだ。

要は、岸政権が丸ごとアイゼンハワー政権に飼われていたということである。そしてその契機となったのが、8年間、CIA長官の座にあったアレン・ダレスの「手先」(同書の表現によれば、スプーク=スパイ)であったハリー・カーンと岸信介との出会いということになる。

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