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都市の歴史

都市

都市の見方にはいろいろあると思うが、大別すると次の二つに分けられると思う。

まず、「計画された都市」。優れた為政者によって大局的見地から立派な都市づくりが行われた場合で、例えば日本では、江戸の城下町建設の初期がそうだった。

もう一つは、「生きた空間としての都市」。計画して出来る、あらかじめ作れた都市ではなくて、そこに住む住民が自分たちで知恵を発揮し、使いやすい魅力のある生活空間を付け加え変化させていった都市。

例えば、中世の都市論でよく言われるように、江戸中期以後の江戸の町では、計画的に作られた都市をのりこえて、どんどん市民が都市を魅力的にしてきた歴史があることがわかる。

「山の手は『田園都市』であり、広い武家地が広がっていて緑があふれていた。宗教空間、鎮守の森も緑をいっぱいもっていた。それらは必ずしも計画されたものではなく、むしろ、庶民が自分の庭で花をめでるような感覚で、時間とともにだんだんと、山の手全体の生活空間の中に緑を取り込んでいった。

一方、下町は「水の都」だった。この水の都は幕府が大土木事業を駆使して、地形をいじりながら掘割や河川を整備してできたもので、流通経済のために計画的に作ったという側面があるが、そこに文化的な水の空間を作っていったのはむしろ民衆の側で、見世物あるいは演劇空間、名所といったものが、水をネットワークにして作られていった。」(川添登『東京の原風景』日本放送出版協会、1979年)。

この2本立ての都市のあり方が母体となって江戸文化が花開いていた。「計画された都市」、その上にそこに住む庶民が「生きた空間としての都市」の性格を味付けしていったわけだ。

ところが、現代では計画された都市の方に比重を置きすぎていて、西洋風モデルで都市あるいは建築をつくることが絶対になっているのではないだろうか。

日本の感覚をベースにしながら、西洋のモデルをうまく取り入れたのが大正から昭和のはじめのモダニズムの時代で、江戸から続いた伝統や歴史性を失わせるもとにもなったといわれるが、同時に大きな成果もあったように思う。並木道の建設、緑化、あるいは公園づくりなどがその典型だ。

ここでも行政側がつくった都市を、住民側が生きられた空間に変えていく能力・センスが重要で、都市の生活を楽しみながら、主体性を発揮していたように思う。

都市にはこうした二つの側面があったが、戦後は両方とも駄目になってしまったのではないだろうか。
戦時体制化に入っていく段階で、都市の計画も行われなくなるし、生きた空間もつぶされていき、駄目押しに米軍の徹底的な破壊で都市の時代が終ってしまう。

そして、戦後の高度経済成長期というのは、計画された都市、しかも機能性とか経済性とか利便性とか、あるいは近代的な高速道路とか超高層ビルといった建造物を主に作っていく、生きた空間に対して正反対の路線をとる時代だった。

現代ではそうした流れに対する反省や危機感のあらわれとして、美しい自然環境や歴史的建造物・庭園などの保全・管理を推進する運動や、それぞれの町で都市の見直しが叫ばれるようになって、「町づくり」あるいは「町並み」といった言葉が全国で聞かれるようになった。

歴史的環境とか歴史的町並みのある町だけでなく、どんな都市でも街づくりということが行われるようになってきたのは良いことだと思う。

その土地の地形とか歴史、自然の条件の上に作られて、人々の生きた空間の中に存在しているものが目を向けられているわけで、江戸期以来失われていた日本の都市の復興が少しずつ始められたのだと言えるかもしれない。

東京という都市を語る上で、その前進となる江戸の成り立ちは重要だが、これに関して非常によくまとまった文章があるので引用したい。

「江戸・東京を個性づけているものとして豊かな地形があります。東京は7つの丘からなり、上野台地、本郷台地、小石川・目白台地、牛込台地、四谷麹町台地、赤坂麻布台地、白金台地があります。平坦な部分にも谷が入り込み、フレキシブルで有機的な町が作られていったところに東京の大きな特徴があります。

逆に下町の方は、地形の状態をよく見て人工的に掘割を通して、水の都を作っていきました。山の手は「田園都市」、下町は「水の都」という特性を強く持っています。」(陣内秀信『東京の空間人類学』ちくま書房、1985年)

まず、江戸が城下町としてできる前のプレ江戸の時代から、すでに今の東京につながる自然の条件があって、地形の上に人々の行為をつけ加えながら人為的に都市を作っていったことがわかる。さらに続けて同著

「重要なのは道路ですが、そのでき方は実に理にかなっています。まず、広域を結ぶ街道が、みな尾根の上を通っています。例えば、本郷台地の中仙道、半蔵門・四谷・新宿を通る甲州街道、また旧大山街道にあたる青山通り、さらに高台を行くローカルな重要な道など、放射状に都心から外に出て行く道はどれも尾根を通るのです。

それに対し、もともと低い所には農民が住んでいました。それが次第に町人地化してコミュニティが生まれます。今は、ローカルな商店街となり、根津、菊坂、音羽町、麻布十番など、みな谷道を中心に低いところに賑やかな活力のあるコミュニティをつくっています。閑静な屋敷町と活力のある町がカップルになって、東京のあちこちに存在しているのです。 ー中略ー こういう地域構造は今でもほとんど変わっていません。」

東京の都市構造を見るとき、やはり、こうした江戸のしっかりした土地条件の上に基本的には重なっていて、すぐれた環境財産として継承されている要素が多いことがわかる。そういうものを基本として大切にしていくことが、景観を演出していくうえでも「住み心地の良さ」をつくっていくうえでも、緑の保全といううえでも、重要な課題と思う。

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