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銅鐸ーその謎の遺物

銅鐸

 銅鐸について強く心を強く引かれた発端は、森秀人『埋もれた銅鐸』だった。古本屋で見つけた紀伊国屋書店の新書版で、森氏の略歴さえついてない本だった。

 「生口」を献上して非生産的な体制だったと断定して、古代天皇制のスタートを攻撃し、学者の誰彼を攻撃する論調には同意できないものの、「古代に呪われた祭器として伝世しなかった銅鐸」という内容に、心魅かれその答えを捜してきた。

 銅鐸が発見される時は、いつも偶然で考古学者が発掘したものはなく、大型のものは六、七十キロもあるような宝物なのに伝世したものは一つもない。

 銅鐸は征服者に奪われないために故意に埋められたのか、それとも地中に埋めて保管するものだったのか。そしてこれは何と呼ばれていたのだろうか。これほどの宝物なのに何の記録もないのは何故か。など、想像するしかないというところがミステリアスで惹かれた。

 そして、今自分なりにそれらの答えを出せた。白川静氏著『漢字百話』の中に「殷代の祭器」について書いたところがある。

 「中国南方辺境の地に相接する湖南寧郷の山頂から大鐃が出土し、また少し離れた山の中腹から四羊犠尊が出土している。大鐃はこの地の他に長江下流の沿岸近い数地からも出土しているが、いずれも七十キロ近い大器で、出土場所も寧郷大鐃同じく耕地の頂上近く、おそらく展望のきく場所に、殷が南方諸遺族と接する地点に異族神厭伏の目的をもって埋納されているものだろうと考えられる。我が国の銅鐸に与えられている機能といくらか通ずるところがあるかもしれない。

 大鐃は容易に運び移すことのできるものでないから聖地としてその山頂に埋め、祭祠を行う時にはその土を除いて聖壇とし、終わればまた埋められたのであろう。」『漢字百話』P8、9

 これを呼んだとき私は今までの疑問が氷解する思いがした。我が国の銅鐸が、それを奉祭していた時何と呼ばれていたか、ということについて、我々は銅鐸と言えばあの奇妙な祭器をすぐ想像できるが、もともと銅の字も鐸の字も漢字であるし、しかもそれは大和言葉の表記ではない。これを銅鐸と呼ぶようになったのは和銅六年(713年)『続日本記』からである。場合によっては宝鐸、あるいは塔鐸と書いた例もあるが、次第に銅鐸という字に落ち着いていった。もうこの頃には銅鐸を日本語で何と呼んでいたか人々は知らなかった。

 「では中国に鐸に似た楽器が全然なかったかというとそうではない。中国の古い奏楽の楽器に鐃というものがあり、それはダウ・ニョウ・ネウなどと呼ばれていたもので、銅鐸と酷似している。日本の銅鐸は円形であり、中国の鐃は角型であるが、原理的な楽器の構造は似ているのである。このダウという楽器は日本ではクスミと呼ばれるもので、たんに鐃だけではなく、金属製の楽器をクスミと呼ぶのは興味のあることである。」『埋もれた銅鐸』P58、(森秀人)

 銅鐸の鐸は日本音でサナギ、あるいはヌリデ、ヌデ、またはスズ、鐃はクスミと呼ばれていたのである。

 さてこのクスミは古代の文書の中には出てこないが、神名の中によく似たクシミの名があらわれている。
 大和、大三輪神社の祭神は櫛ミカ玉命と伝え熊野那智社では夫須美大神、出雲松江の熊野社では、櫛御気野命と伝えている。出雲国造賀詞では櫛ミカ玉命を祖神とし、古語拾遺でも出雲玉作の祖を櫛明玉命と書いている。

 古事記その他に書かれなかった銅鐸の名前が、思いがけず古来から変わらない神名に残っていたと思うのである。  古語拾遺は忌部広成という中臣氏に追い落とされてしまった古代、忌部一族の書き残したもので、それだけに官選した文書に記録されなかった言葉が残っていたのだろう。

「忌部の祖は太玉、それを祖とする出雲玉作の祖、櫛明玉命」

 大三輪神社も、出雲松江の熊野社も、その起源において最古の神社に入る。大神神社の祭神は大国主命とされているが、櫛ミの神もおり、古事記には櫛御方命の子孫であるオオタタネコが神主となっている。

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