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宣伝媒体と検閲

GHQ"

 新聞

『太平洋戦争史』(14)CIE製作。1945年12月8日〜17日まで全10回、すべての全国紙に掲載。 第二次大戦をアメリカ側の視点で書いたもので、特に日本軍が行ったとされる残虐行為が強調された。アメリカの意図としては、東京裁判を控えて、徹底的に日本の軍部を糾弾し、戦犯になるのは当然だとすること、また占領開始当初から、米兵による婦女暴行事件が頻発していたことのカウンターとも考えられる。この後新聞連載が本にまとめられ、学校の教材として使うよう命令された。


 映画

 映画は、1945年〜1953年頃までCIEによって400本以上製作され、文部省を通じて小中学校の生徒、市町村住民にも鑑賞を義務付けている。
 CIE製の宣伝映画については、それを探し出しそのうち51本を実際に鑑賞した土屋由香氏によれば、内容の多くは近代性、合理性といった価値観を、アメリカという国家の優秀性と結びつけながら宣伝するものであったらしい。またその雰囲気も明るく楽しげにアメリカのライフスタイルを見習うことを強調するものが多かったという。(15)

ラジオ

『眞相はかうだ』CIE製作 『太平洋戦争史』と同様の主張を、反軍国主義思想の作家と少年の対話形式で放送。1945年12月9日から全10回、翌46年2月までの番組。その後も『眞相はこうだ 質問箱』(46年1月18日〜)、『眞相箱』(16)(46年2月17日〜同年11月29日)、『質問箱』(46年12月11日〜48年1月4日)、インフォメーションアワー(48年1月〜)など形を変えながら占領期間中続けられた。小中学校にも生徒に聞かせることを義務付けている。

 媒体は違うが、内容は「日本軍国主義」糾弾という点で一致しており、またどれも占領軍の手で作成されたり、指導管理を受けていたものだが、日本人が作った体裁がとられた。

 アメリカはこれらのメディアを使って、日本人および日本国に「軍国主義」、「全体主義」といったマイナスイメージを貼り付けていった。これは宣伝戦において敵を悪魔化をする時の類型的な手法であるが、同じことは戦時中、日本だけではなく、自国のアメリカ国民や同盟国その他外国に向けてもこの日本に対する印象操作は行われていた。


検閲

 メディア統制の特色は、日本の政府機関を通さないGHQによる直接統制であったことである。
 他の日本の諸機関では、全て古い省庁を残した間接統治であったが、メディアだけはCCD、CIEを通じて直接行われた。メディアを所管する官庁は、戦前は内務省、逓信省、あるいは情報局があったが、それらのメディアを統制する部局は完全に無くなった。

 検閲方針の提示は、1945年9月10日、詔勅の形式ではなく最高司令官指令(SCAPIN16)の形式で行われており、その任務にはCCDがあたった。
 日本のメディアは占領軍の動静を、占領軍に都合の悪いもの(兵士の非行、原爆の状況)も含めて「自由」に流していたため、「公共の安寧を乱す報道の禁止」を通達して牽制したが、それでもGHQに対する「配慮」は取られなかった。9月14日には同盟通信社を活動停止にする実力行使に出たが、報道の変化はまだ鈍かった。

 続いて朝日新聞に9月18日発効停止が命ぜられた。翌日処分は解かれたものの、その同日「新聞規則順令(プレスコード)」を出し、日本のメディアが守るべき報道基準を示した。

 この1945年9月19日のGHQの見せた強硬な姿勢によって、ようやくメディアは、「従順」さを示すようになり、「自由」な報道の意味を理解した。

 続けてラジオコード、ピクトリアルコード(映画、演劇などが対象)が出され、メディアの統制、検閲の体制が整えられていく。10月中には、東京、大阪の主要紙、通信社、ラジオの事前検閲体制がほぼ完成し、書籍や雑誌、日刊紙などもその中に組み入れられていった。

 メディアが「正しい報道」の姿勢を身につけると、事前検閲は事後検閲へと移っていった。1946年末から47年にかけて徐々に移行が始まったが、分野によってはほぼ無検閲になったり、最後まで事前検閲が続けられる分野もあった。

 結局、全国紙の場合は1948年7月15日に、そして7月25日には『アカハタ』など共産党系五紙を最後にすべて事後検閲に移った。

 事後検閲になったとはいえ、それはメディアに対する圧力が減じたという意味ではない。事前検閲のときだったら検閲官がチェックしてくれるため、楽な面もあった。しかし事後検閲になると、すべて自己責任になる。メディアは一層緊張感を持って動かざるを得なくなるという側面があった。
 事後検閲に移る直前の5月に、見せしめとしての意味であろうが『日刊スポーツ』が、東京の事前検閲紙として初めて軍事裁判にかけられた。
 ただ、事後検閲も1949年の10月末に終わる。つまり検閲そのものが終わるわけだが、それは、ちょうど当時日本の財政が逼迫して、ドッジ・ラインの財政緊縮によって財政建て直しを行う必要性をGHQ自身が認識し出したとも言える(GHQの費用は全部日本政府が持っていた)。
 また、GHQの方も、メディアが事後検閲以降一層従順になってきたと認識しており、それから得られる情報も大したものではなくなっていた。実際、『アカハタ』などを除けばほとんど削除されるところはなくなっていた。

 先に言ったように、検閲は1949年10月末に終わった。ただ、ラジオだけは検閲が最後まで残った。CIEが実質的には担ったと思われるが、その研究はまだ不十分だ。というのは、NHKの放送文化研究所がやっているが、この時期のことは実証していない。最後まで放送台本、ニュースの検閲だけは残っていた。それだけ放送の力は大きいと考えていたことが分かる。
  映画もラジオと似ていて、CCDとCIEと一緒に検閲、指導を行っている。CIEが指導し、最終的にCCDがチェックして、許可を与えていた。だから、事前検閲という方針は貫かれた。このあたりは谷川建司氏の著作(17)に詳しいが、映画と活字メディアとははっきり違っている。紙芝居などビジュアルなものも映画に近い検閲形態であったようだ。

 CCDによる検閲は一定の段階で終了するが、CIEの活動は続いていた。占領終了も関係なく、アメリカ文化センターなど今も存続している機関である。地方にCIE図書館をつくったり、あるいは先の「宣伝の具体例」で見たような映画を製作して学校などで鑑賞させた。

 新聞では、例えばCIEは表向きには記者クラブなど廃止せよと言いつつ、実際にはうまく利用したり、日本新聞協会をつくったり、新聞をうまく制御していた。あるいは、新聞労働組合は強かったが、それを弱体化させるために「編集権」は経営者にあるとの主張を貫き、資本家側をバックアップしてストを弾圧した(18)。

 基本的には、マッカーサーの、GHQ大きな方針は、初めは「民主化」を進め、後からそういう行き過ぎを是正して、どちらかと言えば反ソ的な方向に変え、冷戦に対応させるという方針で、これがCIEを通じてメディアに注入されていった。

  また、教育の現場でも、例えば初めは「右翼」教師追放をやっていたが、次第にレッドパージに変わった。基本方針は、大きな枠はマッカーサーや上層部が決めて、それをその現場に伝達するのがCIEの役割であった。


(14)すでに検閲によって出版物から「大東亜戦争」の語句は排除されていたが、使用が禁止されるのは、連載開始から1週間後である。

(15)前掲『アメリカ対日占領軍(CIE映画)ー教育とプロパガンダの境界(2・完)日本人による受容と解釈』31項-33項

(16)櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作所「眞相箱」の呪縛を解く』(小学館文庫、2002/8/1)に「眞相箱」の原作本が復刻されて収められている。

(17)例えば、谷川建司『アメリカ映画と占領政策』(京都大学学術出版会、2002.6)や谷川建司『占領期のメディア統制--映画 (特集 占領期再考--「占領」か「解放」か) 』(「環」22、2005/Sum.273〜277)など。

(18)前掲『占領期メディア分析』第一章に詳しい。

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