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略奪民の発生条件

略奪民

 ここではヨーロッパ民族の歴史から、その特徴についてみていきたい。ちなみに略奪民というのは私の造語である。念のため。

 冬の長いヨーロッパでは、春の来るのが遅れると、致命的な打撃を受け、飢餓は慢性的になる。といっても、その気象に合った穀物生産量・人口になるはずである。
 生産性が低い場合、一農民あたりの略奪民は少なくなるはずで、むしろ生産性が高く、余剰物が多い方が略奪民は発生しやすい。
 また、気象変動が起こった際に略奪がおこったとしても、気象変動は全世界共通のもので、それがヨーロッパ民の略奪性の説明にはならない。

という当然の反論が予測される。あるいは生産性でヨーロッパ民の特徴を説明しようとすれば、
1.生産時間あたりの収穫量が豊かだったため、略奪への時間が確保できた。
2.生産に共同体のような、皆の力を必要としなかった。
などの理由も考えられるかもしれない。

 これらに答えるためにはまず、ヨーロッパ人の思想的な背景を知る必要がある。そのためには、キリスト教、特に旧約聖書の世界(紀元前3000年〜)についてみていきたい。


最適条件の終末


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 一つに、当時の農業は、天水による転地農法であったことである。略奪農法とも言われ、農地を頻繁に換え、常に新しい農地を求めて移転しなければならなかった。  人口増は、次の新しい領土、農地を得ることによって、解消していた。また、このころ栽培されていた麦は、略奪作物と称されるように、跡地の肥土がすぐにやせてしまう性質がある。

 もう一つは、農業が生まれたのは約3000年続いたヒプシサーマル期だったこと。ヒプシサーマル期は、太陽活動が活発で、温暖な気候が長期にわたって続いた時期で、人類は比較的平和で豊かな地方分散型の生活を送っていた。

 上記のような転地農法が可能だった背景には、天文学的な好条件が背景にあったわけだ。では、この豊かな収穫を約束していたヒプシサーマル期が終末を迎えると、どうなるか。


なぜ、エデンの園の物語は生まれたのか?


 実は、人々が、より、豊かな土地へと集中し、限られた肥沃地帯を武力で奪い合うようになったのが、このヒプシサーマル期の終末期なのである。

 旧約聖書の神話に、何不自由ないエデンの楽園に暮らしていたアダムとイブが、神との約束を破ったために永遠に人間は苦労して働かなければ、生きていけなくなった、という話があるのはご存知の方も多いだろう。

 この「エデンの園」には、モデルが存在する。
 最初の都市国家を築いたシュメール人が住んでいた実在の場所である。ラガシュとウンマという二つの都市国家が、紀元前2600〜2500年頃に、「グ・エディン」(平野の首)という土地を巡って、戦争を繰り返している。この「グ・エディン」が「エデン」のモデルである。

 旧約聖書はヘブライ人が作った歴史書だが、彼らは元々、牧畜をしてメソポタミア地方などで放浪をしていた。シュメールの土地に住みたかったのだが、戦争をしても勝てなかった。そこで、豊かな土地に住めない理由を納得させる中で、楽園追放の物語ができたのである。エデンは、シュメールの豊かな土地の象徴だったというわけだ。

 この後も、全メソポタミアは、次から次と周辺の騎馬民族に征服されていく。

 前2400年頃には、アッカド人のサルゴン一世率いるアッカド王国、前2100年頃には、シュメール人のウル第三王朝、前1900年頃には、アムル人の古バビロニア王国がメソポタミアを統一する。

 豊かで、文化の高いメソポタミア地方は周辺の蛮族にとっては格好の略奪対象であった。メソポタミアの歴史は次から次へとこの地に侵入する諸民族の歴史といってもよい。

 この征服の歴史の敗者であるヘブライ人、つまりユダヤ人の作った思想が、ユダヤ教であり、それを母胎とするキリスト教である。この部族闘争の敗北の歴史から生まれたキリスト教の思想が、後のヨーロッパ人の思想的バックボーンとなった。

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