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女をめぐる争い

トロイ戦争

トロイ戦争1でも述べたように、この戦争は、ヘレネーという一人の女のために大戦争が起こる。 またアガメムノンとアキレスが捕虜の女をめぐって争うところから「イリアス」は始まる。

ヘロドトス第一巻の冒頭には、アルゴスの王の娘イオがフェニキア商人にさらわれてしまうエピソードがある。後にクレタ島のギリシャ人がフェニキアの港チュルで、そこの王の娘を奪って仕返しをしたとある。

女が異国の船乗りによってかどわかされるという話は、古代では珍しくない。ホメロスの世界のギリシャ人の場合にも、その略奪経済の中に女が含まれていた。

ホメロスの叙事詩の世界の主要な生活様式は、牧畜を主にした牧農経済であり(農業が前面に出てくるのは後代)、耕作、果樹栽培は必要最小限にとどまり、大小の家畜に衣類、食料の大半、牽引、輸送を依存していた。経済の基礎単位であるオイコス(家族集団)は自給自足が原則であった。

しかし自給自足ではまかなえないものがあり、それは一つには金属で、もう一つが(フィンレイははっきりと言わないが)、家内労働力としての女奴隷であったろうと思われる。

さて、これらを手に入れるには二種類の方法があり、一つには交換とその変形である贈り物の習慣、一つには略奪であった。「オデュッセイア」第一巻には、オデュッセウスの父ラエルテースが、牛24頭分の代価で下婢のエウリュクレイアを買い求めたとある(彼は奥方を恐れて彼女に手は出さなかったが)。

略奪は「英雄時代」には頻繁に行なわれた。

「私が船を率いて攻略した人々の町は十二にもなる。陸戦でも、この地味の肥沃なトロイアで、十一にのぼるだろう。それらのどの町からも、私はたくさんに立派な財宝を分捕ってきて・・・」とアキレスは誇っている(「イリアス」第九巻)。

ホメロスで目立つ分捕り品は、倒した将兵の武具や武器である。敵の屍から武具をはぐことは、勝者の最も誇らかな場面として、ホメロスでは惜しみなく描写されている。

「イリアス」の第十三巻をはじめ、死体の奪い合いで両軍が争っているような場面がたくさんある。 ギリシャ軍が防壁を破られ、船の傍らで背水の陣をしいている時さえ、相変わらず武具の奪い合いに気をとられているのを見ても、彼らの略奪への執念のほどが知られる。

城市が落ちれば、真先に彼らの餌食になるのは、もちろん女たちである。有名なへクトルとアンドロマケの愁嘆場で(第六巻)、征服者に連れ去られた女の境遇を、ヘクトルは沈痛な言葉で描いて見せる。

「だが、そのトロイアの人々の後々の苦しみとても、それほどには気がかりにはならない。また母上ヘカベーの悲嘆や父プリアモス王や、兄弟たちの苦難だっても――それは大勢いるし、みな役に立つ者どもだが、やがては敵武者の手にかかって、塵泥の中に倒れ伏そう――だが、それとても、おまえの受ける苦しみほどには、気がかりではない。誰かしらん青銅の帷子(よろい)を着たアカイアの武士が、涙にくれているおまえをむりやり、自由な日々を奪いとり、連れていこうに。それであるいはアルゴスに住んで、他の女の言いつけで、機を織りもしようか。またおそらくは、メッセーイスかヒュベレイエーの泉から水を汲みもしようか、ひどい侮辱を身に受けながら、きびしい運命に強制されて。」(呉茂一訳『イーリアス』岩波文庫、1964。以下の引用も同訳)

貴族に仕えるメンバーは、ヒエラルヒーをなした従者層と主として女の奴隷たち、それに労働者であった。

女奴隷は洗濯、縫い物、掃除、粉ひき、身辺の世話等の家事に就き、若くてみめ麗しければ、当然主人とベッドを共にする。 フィンレイは、ヘクトルがアンドロマケに対して女奴隷の定めを省略して語ったのは、心優しい気配りだと評している。

さて、こう見てくると、トロイ戦争におけるヘレネーの存在は大分かすんでしまうようだ。 ギリシャ軍の本音はトロイアの女たちにあるのであり、ホメロスがヘレンよりもアンドロマケをより印象的に描いているのも、その辺の心理を反映したものであろう。

過去の王権の壮大な讃歌であるトロイ戦争の物語が、単なるありふれた略奪行為の延長であっては、テーマ的に引き締まらないである。 王の中の王アガメムノンは、一族に加えられた恥辱をすすぐのでなければならない。

ヘレンはいわば物語を高貴にし、侵略者であるギリシャ軍に公正の感を与える口実にすぎない。 ギリシャ方の士気を鼓舞しているものは、例えば次のアガメムノンの言葉に表わされている。

「もしも私に、山羊皮楯(アイギス)をお持ちのゼウス神とアテーネーとが、堅固に築きあげられたイーリオスの城市を攻めおとすのをお許しになったら、まず一番には私のつぎにきみ[テウクロス]の手に、戦功第一という褒賞を授けてあげよう。三脚の鼎か、二匹の駿馬をそれも戦車をいっしょにつけてか、または女を、きみと一つの臥床(ふしど)に上っていくようなのをな。」(第八巻)

アガメムノンがテウクロスに約束しているのが、トロイからの予定される分捕り品であることは言うまでもない。 次に、ホメロスの文学的な設定である「怒り」の二重の展開は、アガメムノンからの和解の申し出を携えてきた使者たちに対して発した、次のアキレスの言葉に語られている。

「だがこのうえ、アルゴス勢がトロイア方と戦ってゆく必要がどこにあるのだ、まったく美しい頭髪のヘレネーのためではないか。それなら物を思う人間の中で、妻を愛するのはアトレウスの子の二人[メネラオスとアガメムノン]だけだというのか。まったくたとえ勇敢で、分別盛りな男といっても、自分の妻はいとおしく愛(かな)しいだろう。それはまさしく私にしろ、槍で奪いとった女だけれども、あれを心底からいとしく思っているのと同じだ。」(第九巻)

メネラオスはパリスのためにヘレンを奪われたが、今またアキレスは総帥アガメムノンのために、戦でかち得た女ブリセイスを奪われた憤りを吐露しているわけである。

しかし贈り物をつけて女を返すという和解の申し出をアキレスが断り、交渉がこじれてくると、「怒り」は「強情」となっていく。

「だが神々はあなたの胸に、それもたった一人の乙女のことで、容赦を知らない悪心をおかれたものだ。だが私らはいま、七人も選りぬきのよい女をさし出し、そのうえたくさんな品物をつけたすのだから、あなたも折れて心をやわらげ、あなたの家の客にたいして会釈してくれ。」(第九巻)

これはアイアスの言葉だが、歴史は男たちが女(と土地)を巡って合い争う事で勝者敗者が生み出されてきたことをよくあらわしている。


参考文献、関連書籍
高津春繁『ホメーロスの英雄叙事詩』 岩波新書、1966/12
M. I. Finley『The World of Odysseus』Penguin Books、1972/3/30
ホメロス、訳松平千秋『イリアス〈上〉〈下〉』岩波文庫、1992/09
アイスキュロス、訳久保正彰『アガメムノーン』岩波文庫、1998/10
アポロドーロス、訳高津春繁『ギリシア神話』岩波文庫、1978/6/16

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