古代叙事詩の華である英雄たちの奮闘ぶりを、次に見ていく。
ホメロスの戦闘場面は現代の機械化し、非人間化した戦闘とはまるで違った世界である。むしろその描写のなまなましさ、戦闘者の激情の息づかいもあらわな直截性によって、近代人のセンチメント、ヒューマニズムを逆撫でするような感がある。
我々は現代の戦場において砲弾が炸裂すれば、そこに飛び散る肉片を想像することはあっても、殺戮者のなまの意志、憎悪までもその砲弾の中に見ようとはしない。炸裂する砲弾は、あくまでも個人の意志を越えた「戦争」というより大きな共通意識にあやつられた、無機的な現象でしかない。
だから近代戦においては誰に殺され、誰を殺したかということは問題にならない。死者はただ非人称的に「戦死」するだけである。
これに対して、ホメロスの戦闘場面が現代の我々にかえって残酷感を起こさせるのは、まさにそこでは人間と人間とが殺戮の意志をむきだしにして、なんらの距離的媒介なしに、おのれの「腕」を唯一の頼りにつかみあっているからである。
従って近代の戦闘になれた目には、そこにあまりにも個人的殺意がむきだしにされていて、殺し殺される者が互いに生身の人間であることを過剰に意識させられ、一つの砲弾で無名の戦士が吹き飛ぶ時には覚えないような「残酷」「野蛮」が、現代人の繊細な神経に痙攣を起こさせるのかもしれない。
ちなみに、この点に関して、ホメロス的戦闘が十九世紀にも行なわれていたアフリカのズールー族の王シャカが次のように喝破している。シャカは英国王ジョージに使者を送るにあたって、白人の軍隊に銃と槍を併用してはどうかとアドヴァイスする。
「その時こそ、そなたらの兵士たちは、『遠く離れてしか戦えない臆病者』という、われらが軍団から奉られている汚名を、一挙に雪ぐこともできるというものじゃ。
そのような卑怯な兵法はわれわれには、生命に対する畏敬の念に欠けているように思えてならぬのじゃ。
と申すのは、敵を殺すためにはまず、敵を知る必要があるのじゃ。」
(クネーネ作「偉大なる帝王シャカ」土屋哲訳、岩波書店)
その戦闘行為が極めて人間的であるため、ホメロスの世界では人が未だ戦闘を生活の一部としていた時代の、人間のあらゆる自然的な情念が、戦闘において最も凝縮されたかたちで表われることになる。
有能な兵士であるためには人間性を喪失することを要求される近代戦とは、これは大きな相違である。近代戦では「敵」を殺すこと以外には目的を持たなくてよい。
ホメロスにおいては、戦闘は個人的欲望、共同体の欲望以外の何物でもない。欲望は名誉、名声欲となって昇華される。 個々人を戦闘へと駆るものは共同体の中での誉れの意識であり、父祖の名を穢さぬことであり、そして何よりもそうした誉れを具体化するものとしての戦利品への欲望である。
彼らの間での名誉が単なる勲章的、精神的なものでなく、それらを誰にも富として示すことの出来る物質的な価値であることは、彼らがただ「観念」によって戦闘へ駆られているのではないことを明らかにする。 「イリアス」の第十一巻を例にして、彼らの戦いぶりを見てみよう。
「さて両軍は、さながら麦を刈る人々が、両端からたがいに向い合って進み、小麦や大麦の畝を刈っていくように・・・そのようにトロイア方とアカイア方とは、たがいに追撃し、切り合って、どちらも恐ろしい敗走は思わなかった。戦いは両軍ともほぼ互角で、人々はみな狼のように躍りかかった。それをながめて、たくさんな嘆きをもたらす、闘争の女神(エリス)は喜んでいた。」
ホメロスでは戦闘を描写するのに、労働や自然現象の比喩がたびたび用いられる。 ここでの麦刈り、このすぐ先の木樵の比喩、さらに狩猟や牧畜の比喩などは、ホメロスの世界のギリシャ人の生産上の想像力を代表しているのだろう。
「その中でもアガメムノーンは、まっ先に躍りかかって、武士を一人、ピエノールという兵士たちの統率者を、つづいてまたその馭者のオイレウスを、もろともに討ちとった。その男が馬車からとび降り、向かって立ち、まっしぐらにきおいこんでかかるところを、鋭い槍で額を突いた。それで青銅の重い甲(かぶと)の鉢巻さえ、槍先を止められずに、甲と骨とを突きとおして槍がはいっていくと、内にある脳味噌はみなとび散った。」
「さて、アガメムノンは、二人の鎧をすっかり剥ぎとって、胸をむきだしにしたまま、その場に放っておき、次の獲物をねらう。 イーソスとアンティポスは、プリアモス王の息子たちであるが、妾腹のイーソスが手綱を取り、二人で戦車に乗りやってくるのが、アガメムノンの目にとまった。」
「一人は乳房の上の胸のあたりを槍でつき、もう一人のアンティポスは耳のわきを剣で刺して、馬から落した。それから急いで、この二人の美しい物の具をはぎとった。
「・・・そのありさまは、さながら牡獅子が、すばしこい牝鹿のおさない仔らを、やすやすと強い歯牙にかけて、かみ砕くのにも似ていた。ねぐらを襲って、仔鹿のかよわい命を奪い去るのだ。母鹿がたとえ近くにいあわせても、母親自身の足がひどくふるえて、子供を守ることができない。」
トロイ勢も両人の死を手を拱いて見守るばかりである。そこへアンチマコスの息子たち、ペイサンドロスとヒッポロコスの兄弟が、同じく戦車に駕してやってくるが、たちまちアガメムノンの手中に落ちてしまい、二人は車上から命ごいする。
「生捕りにしてください、アトレウスの子よ、それで適当な身の代金をとってください。アンチマコスの屋敷には、たくさんの財宝がしまってあります。青銅や黄金や、それに人手のかかった鉄などの中から、あなたさまへと父は数えきれないほどの身の代を、さしあげるでしょう。もし私らが生きながらえて、アカイア方の船陣にいると聞きましたら。」
二人の嘆願にも、アガメムノンは一向に心を動かされない。
「・・・以前に彼(アンチマコス )はトロイア人の会議の席で、メネラーオスと神にもたぐえられようオデュッセウスが、交渉にやって来たのを、その場で殺してアカイアへ、帰してやらないように、すすめたそうだな。だから今こそ自分の父の、非道の罪を償うがよい。」
「こういうなり、ペイサンドロスの胸のへんを槍で刺し貫き、馬車から地面へ落したもので、うつむけに地上へ倒れ伏した。そこでヒッポロコスが跳び上がって逃げだすところを、地面へ撃ち倒した。両手を剣で切りおとし、頸をたたき切ってほうりだし、丸太のように群衆の間を転がってゆかせた。」
ホメロスは大抵捕われたトロイア兵に命ごいをさせているが、これは何の容赦もなく切り伏せられる前置きのようなものである。近代人のセンチメンタリズムの介入する余地はまるでない。
仔鹿を襲う獅子の譬えにしても、現代風の感傷にふけっているのではなく、強者が弱者を餌食にし、時にいたぶるのは自然界の通有性であるが、ここにはまさにライオンが仔鹿を食らう動物界の食物連鎖のサディズムが、そのまま人間界のものとして虚飾なく語られている。
ホメロスの世界では、勝者は率直に驕り、またおのれの弱さを自覚した時には、かの豪傑ダイオメデスも神の如きオデュッセウスも身の震えをおさえることができない。
しかしながら、ホメロスにヒューマニズムの萌芽が全く見られないわけではない。
ホメロスは倒れていくトロイ将兵の妻子や親や財産を詳らかに語ることによって、人間の死が単なる動物的死ではなく、背後に多くの精神的、物質的財をにないながらも、それらから突如として切り離され、不条理な闇の中へ沈んでいかねばならない――まさに人間的な死であることを浮かびあがらせる。