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都市の将来

都市

 都市には人口の8割の人間が集中している。田舎が良いといっても現実に多くの人々は都市に住む。「住み心地の良さ」というものを考えたとき、人や文化によって、その内容は当然異なってくる。単にヨーロッパの都市の真似ではなく、ある程度ごちゃごちゃしたものを許容することが大事だろう。

 日本の都市の雑然としたたたずまいを醜いとして、一方的に批判する向きもあるが、日本人はこうしたたたずまいに案外「住み心地の良さ」を感じているように思う。

 長崎のハウステンボスの貧しさは、建物だけを外国から借りてきて、どかっとただ置いてあることにある。当然、日本固有の風土などは全く関係なく、さらにはそこで日常生活を営むべき人間がいない。「生きた空間」のない違和感とむなしさしかない。

 また貨幣価値に換算できるものだけを重視するのではなく、貨幣価値では測れず、それゆえにまた、住民生活にとって根源的価値を持つものを重視することも大事なことだ。

 たとえば、古くから町に伝わる一本の木、海辺をわたる潮風、遠くに見える山、伝統的町並みがつくり出す昔ながらの景観。こうした自然環境と歴史環境は、それ自体、その価値を数量化しにくいが、それが、そこに存在することで、住民の心は安らぎ、そこに生きることを誇りに思う。L・ダレルのいう「人間は遺伝子の表現であるよりも、むしろ風景の表現である。」のとおり、自然を失った風景からはどのような文化も生まれてこない。

 多くの現代都市が快適性に乏しい理由として、これらほとんどすべてに反しているからだということが挙げられる。このような状況の中で都市は味気ない、殺風景なモノや機能の集積でしかなくなってしまっている。施設としての快適さやうわべの美しさをいくら積み重ねても、現代都市は「住み心地の良さ」を感じる環境、つまり本当の風土を感じる環境を生み出すのは難しい。

 豊かな社会になって量から質への転換がなされる中で、消費社会というものは到来したが、結局は経済成長の強制という一面も持っている。もし、本当の「住み心地の良さ」というものがあるとすれば、それはモノの豊かさよりも、精神的ゆとりからくるものだ。

 精神的豊かさは、ある程度の物質基盤を必要とするとしても、この日本においては十分以上達成してしまい、永遠に続く経済成長の神話が崩れた今、人々はモノを追うのに疲れて、アリのように働くかわりに、精神的な満足の得られる仕事につき、ゆとりのある生活を送りたいと思うようになっている。そのような生活尊重経済の確立こそ重要と思う。
 例えばこんな生活はどうだろうか。

 「谷中や根津では人々の生活のリズムがゆったりしているんです。大工や左官みたいな出職、竹篭や銅鍋などの居職、どちらにしても、日が昇ると起きて仕事を始め、日が沈むとしまいにして風呂へ行き、一杯やって寝る。職人も商家も職住接近だから、24時間のうち通勤に4時間もとられるというバカバカしさはないわけです。仕事のテンポを強要されることもなく、勤勉で忙しそうにみえても、それは自分がつくったリズムです。(森まゆみ『谷中スケッチブック』、ちくま文庫)

 環境のいくら局地的な快適さをつくってもこのような住み甲斐のある環境、本当の意味の風土にはならないのだ。

 都市は本来的に人為的な人間集団の場であり、単位であるだけに、受身の心しか持たない人々による都市は、住民サービスに膨大な費用がかかるばかりで、死にいたる病にとりつかれることになる。「パンとサーカス」の受益型遊民に満ちた帝政期ローマの姿とその末路は、この点まことに示唆的であるといわねばならない。

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