我が国の市町村は、強力で画一的な地方制度のもとで断行された二度にわたる大規模な町村合併による区域の変更によって、市町村としてのまとまりを喪失してしまった。
市町村側も「住民の意向」よりとかく「国の意向」に心を奪われがちであった。
こうした市町村政策のあり方を象徴するのが、安易な地名への変更に手を貸してしまったことにある。
地名や区域の変更は、住民をそれぞれの都市が立脚点とする歴史から切り離してしまう。大森区と蒲田区を合併して大田区にするといった行政があちこちで行われた。
「日本列島の各地で、地名の整理が永年にわたって培ってきた歴史を無視して推し進められている。 ー中略ー 土地に刻み込まれたそれぞれの場所の歴史は、新たな地名の出現とともに埋もれていく。地名の変更がもうひとつの「列島改造」だといわれるのも、あながち誇張したことではない。
なかには宅地開発業者の思惑に支持したような地名まで数多くある。アオバダイ、ミドリガオカ、ヨウコウダイ、コウナンダイなどといった地名が、さまざまな当て字を伴いながら、都市近郊に続々と出現している。住宅地に好まれる漢字は、<緑>であり<陽>であり<丘>であり<南>である。市の行政機関のあるところが「中央」で商店街が「栄町」では、いったい都市の個性はどこにあるのかと思いたくなる。」(藤田弘夫『都市と国家』ミネルヴァ書房、1990年)
古来からある名前はその土地の歴史と深く結びついている。荒神谷遺跡というのがあるが、発見時、島根県加茂遺跡と呼ばれていて、ある学者がこれでは長いから加茂を外そうことを提唱していた。結局荒神谷遺跡という名に落ち着いたがこれも、ものの名前ということが分かっていない一例である。
名前というのはどういうものを背後に持っていたのかを感じることが出来る貴重な財産なのだ。加茂がついているということは古代日本に広く分布していた加茂族がここにいたということがわかり、岩倉という名前は、本来磐座と書き、神社ができる前に縄文時代から開けていた場所だということがわかる。
名前はものの本質をあらわしている。古代においては土地、川、人、山およそ人が知覚した森羅万象全てのものに意味が付与されていた。これを現代人の勝手な都合で好きに変更していいなどというのは傲慢、あるいは無知でしかない。