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銅鐸とはー

銅鐸

 銅鐸とは何か、誰が使用し誰が埋めたのか、これについて大場巌雄博士は『考古学上から見た古氏族の研究』(1975年永井出版企画)で述べておられる内容は、納得がゆく。
 その立論の根拠として、

一、銅鐸は当時貴重な器具で、これを入手または製作し得たものは相当優勢の一団だったと思われること。

二、後世の古典(記紀や風土記等)にこれに関する記事を欠くのは所持した集団が被征服者の如き特別な立場に置かれたと思われること。

三、型式編年上から古型式のものが、山陰山陽に発見されるので、まずその地方に栄えた集団が早く大陸との交流を行い、金属文化を受容したと思われること。

を挙げ、かかる巨族でありながら記録にないので大場先生は他の資料を求め、その一つは古社であり、その二つは古地名であり、前者は「延喜式」、国史、国帳所載社も参照された。

『古代において氏族は神社と共に存し、共に移動した。故に神社名からこれを奉斉した氏族を推定することは困難でない。延喜式に記載された社は、その大部分が悠久な古代からの鎮座に係るもので、そのあるものは先史時代に遡る〜略〜後者即ち古地名は「和名抄」に記載されたもの、風土記等に存するもの』(前出、大場巌雄)

以上の方法で大場先生は銅鐸発見地を検討した結果の結論として古代の巨族カモ氏とミワ氏の二氏に帰着しておられる。

従来、この二氏は大国主命の直系とせられ、この神を中心として我が国を最初に支配していた一団で、本拠地は大和国三輪付近にあり、「出雲国造神賀詞」に『大穴持命が自らの和魂を倭大物主櫛ミカ玉命と称して、大御和の神奈備に座せ』とあるように、三輪山を中心として一族がいた。この神賀詞は奈良時代に出雲大社の神主が朝廷で読んだもので、出雲氏が天皇に従うことを誓う時に読まれた。

田中八郎氏は「大和誕生と神々」の中で、唐古・鍵が盆地を流れる河川によって失われた後、纏向が生まれたが、魏志倭人伝にある倭国大乱は桓帝と霊帝(146〜188)の約四十年間にあたり、卑弥呼が女王となって争乱は治まったとあるが、彼女が王位に着いたのが190年頃であり、纏向の開始も190年頃でほぼ重なっていると言う。

そして纏向のみが持つ特殊な条件があったとして、それが三輪山の背後にある宇陀の山地から取れる辰砂であり、それを交易商品として扱ったことで、買い付けたのは先進国の加工品を交換品として搬入した大陸商人であると言うのだ。

辰砂を掘り出し、加熱加工もしただろうが、この先端技術を持った人々は、古墳時代には大和朝廷の支配下にあって、「土蜘蛛」と呼ばれるような立場に落ちていると思われる。
古事記中つ巻、神武天皇東征の場面では、

「其地より行でませば、尾生る人、井より出で来りき。その井に光ありき。ここに"汝は誰ぞ"と問い給えば、吾は国つ神、名は井氷鹿(いひか)と謂ふ"と答え申しき。即ちその山に入り給えば、また尾生る人に遭い給いき。この人巌を押し分けて出で来たり。"吾は国つ神、名は石押分の子と謂う。こは吉野の国巣の祖。其地より蹈み穿ち越えて、宇陀に幸でましき」

とある。この尾ある「土蜘蛛」と言うのは、辰砂を取る井戸から出て来る人を言っているし、その井戸が光っているのは水銀坑の壁や底は染み出す水銀粒で光り、採掘者は尻当をしていたという松田寿男先生の解釈は合理的と思う。征服者となる神武天皇側はこれらの様子を始めて見たのでろう。

 「神話によれば天祖降下の以前大国主命と交渉し、建御名方神の反抗や鹿島・香取二神の先駆があり、筑紫の日向に降臨、三代を経て神武東征を見るのだが、この間大和民族が優勢な地位を占めるに至り、カモ・ミワ氏族=出雲神族は根拠たる大和地方を去り、一部は出雲に隠退するのやむなきに至ったと考えられる。〜略〜銅鐸が故意にかつ伴出物なく埋没されているのは、その間の消息を伝える〜略〜」(前出、大場巌雄)

 平成8年10月14日、島根県大原郡加茂町岩倉で農道の工事中、大量の銅鐸が発見された。総数39個。
 『銅鐸私考』が出されたのは昭和24年であるから約50年近い月日の後、その正しさが証明されたと言える。

 いつの時代もどの民族も強いものに滅ぼされるのだが、銅鐸にきざまれた蜻蛉や、水と水辺の動植物を刻んだ文様を見ながら、彼らの祈りを思う。


参考文献

大場巌雄『考古学上から見た古氏族の研究』永井出版企画

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