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銅鐸から朱へ

銅鐸

 今日はカラフルな時代である。都会は昼も夜も様々な色彩に溢れている。では百年前はどうだっただろう?千年前は?
 「青丹よし奈良の都」と歌われた奈良の都は青色、朱色の建物が鮮やかに輝いて見えたと思われる。

 その青も朱も旧漢字では、丹と書く。

 「金文の字形では丹は、丹を採取する井戸の形で、丹も朱丹もその井戸の中から採取された。丹は硫黄を含む土石で、青色の絵の具はこの丹を材料とし、朱は朱砂水銀の硫化鉱物を原料としてとられた色で、鉱物質であるから変色せず・・・」(白川静、常用字解、平凡社)

 魏志倭人伝には、「和国は男子は大小となく皆黥面文身す」とある他に「朱丹を以ってその身体に塗る、中国の粉を用うるが如きなり」とあり、また『真珠、青玉を出だす。その山に丹あり』、また景初二年(AD237年)12月の項には『女王卑弥呼に真珠、鉛丹各々50斤を賜い』とある。

 また、正始四年(AD243年)「倭王、生口、倭錦、綿衣、帛布、丹〜略〜を上献す」などとあり、丹が中国皇帝から下賜されたり、倭国から上納したりすることを述べている。

 「倭産の丹に対して魏からは『真朱』が入って来た。真珠・鉛丹五十斤の記載がそれを示している。つまり、『丹』より上質の辰砂として卑弥呼は真珠を賜った。真珠は『真朱』のことでパールではない。〜略〜中国産の辰砂が日本に渡来していた事実は、九州の弥生時代中期の甕棺から検出される大量の辰砂が物語る。甕棺の辰砂は微粉で、粒子がそろっている」(日本民俗文化大系V、水銀ー民俗と製造技術、市毛勲)

 「大和誕生と神々」(彩流社)の田中八郎の説では、水銀=朱砂こそ大和に巨大な権力を発生させた要因である、と言っている。
 奈良に住んでいる地元の人の地元の言葉で語られた大和誕生の考察は私にとって、新鮮な驚きであった。

 山辺の道(奈良・桜井市から天理市までの山麓の道)の古墳群の中でも秀麗な行燈山古墳(崇神稜)の真ん前に天神山古墳があり、ここの古墳は、眼前の行燈山古墳の陪塚とされているが、石室中央に置かれた木櫃の中に、四十二キロの辰砂朱が収められていて、木櫃の周縁の上に銅鏡が二十三面、装飾風に取り囲んでいて、田中八郎によれば、古墳は権力で統治する政治目的と流通経済の集配所で商品展示の目的もあったという。

 日本で水銀を産出する地域は限定されていて、七つの鉱群が認められている中で、特に中央構造線(フォッサマグナ)に沿う大和鉱床群、四国には中央構造線に平行する阿波鉱床群のある地域は「丹生」の地名や丹生川、丹生神社が分布しており、辰砂の産出に関わる集団がいた。

 身体に施朱する他、遺跡の埋納に用いられ、また古墳の内部は三角形の連続模様や波のような連続模様、朱で塗られた壁などが見られる。

 赤という色の持つ力は生命力であり、赤の呪力が死者の悪霊を封じ込めると思われていたからで、またそれだけではなく防腐力がすでに古代殷の頃から知られていたからである。

 『魏へ献上された品々によって日本列島での産物が中国に知られ、その結果、"出真珠、青玉、其山有丹"と魏志倭人伝に記録されたものと思われる。従って"其山"の丹が献上品に加えられている以上、"其山"が卑弥呼の支配化に属していたものと理解される。邪馬台国が日本のいずれの地に位置していたにしろ、卑弥呼は三〜四世紀には開発の進んだ大和と阿波の水銀鉱床群を支配下に置くことができたと考えられる』(前出、市毛勲)

 田中八郎によれば、大和は始め鍵・唐古が中心地で、その重要産物は銅鐸だったと言う。
 唐古遺跡、鍵遺跡ではこれまでに石製の銅鐸鋳型が一種類、土製鋳型が十種類以上確認されているが、それらは紀元一世紀〜紀元後一世紀のもので、1,2年前それを更に百年さかのぼる石製銅鐸鋳型が出土している。
 唐古・鍵では全長40〜60cmの銅鐸を製造していたようだが、土製鋳型の登場により更に大量に製造できたと思われる。

 しかし、銅鐸の祭は卑弥呼の登場する頃列島から消滅した。銅鐸は伝世されたものは一個としてない。全て偶然掘り出されたものばかりである。この重量ある貴重な遺物について記述した記録はない。

 『扶桑略記天智天皇七年の項(668年)於近江国志賀郡、崇福寺を建てんと地を平らにしようとして掘り出した奇異の宝鐸一口、五尺五寸云々』
とあるように、すでにこの頃でも銅鐸が何であるか知られておらず、奇異といっている。

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