ヒストリアン

歴史とネット囲碁のHP
Home>古代,神話>銅鐸と古代の聖地銅鐸から朱へ銅鐸とはー

銅鐸と古代の聖地

銅鐸

 銅鐸を祭っていた古代の一族の、その本来の名であるクスミの神という名で、銅鐸の名を伝えてはいないだろうか。
 大場巌雄先生の『銅鐸私考』によれば、銅鐸出土地の中には三輪神、加茂神に関係が深い神社名、地名が三十六例あるとしている。

 一、大和吐田郷名柄→加茂族がいた。

 二、河内高安村・堅下村・玉手村 → 近くに鴨神社・鴨高田神社がある。

 三、摂津川西村は、多田村・神津村 → 鴨神社があり、大神(おおみわ)郷に含まれる。

 四、三河岡崎市洞町 → 鴨田郷の字鴨田がある。

 五、三河三和村 → 三輪と同名。

 六、三河御津町、御油町・八幡村・豊川市・豊橋市 → いずれも加茂郷である。

 七、三河喜多設楽郡田峰 → 三輪川・三輪村あり・古名の加茂郷がある。

 八、遠江日須賀町 → 近くに大神神社と古名の大神郷。

 九、遠江國三が日町・気賀町・中川村 → 弥和山神社がある。

 大場巌雄先生の説では銅鐸は、加茂・三輪両族のもので、加茂の根拠地は大和葛城、美和は大和三輪であったとしている。  一九九六年十月この大場先生の説を裏書するかのように、鳥取県加茂岩倉遺跡で三十九個という考えられない数の銅鐸が出土した。

 大和朝廷に先立つ大族で、九州から来た新勢力によって駆逐され、銅鐸の祭も記録に残されていなかったのだろう。また土から取り出されて祭時を待ったまま掘り出されずに残った。それが銅鐸が伝世しなかった理由である。

 銅鐸を埋納していた場所について考えるに、そこは聖地であったと思われるが、古代どのようなところが聖地であっただろうか。
 それは、水の湧き出るところ、水があるところだったと思う。銅鐸に刻まれた絵には、水辺の生き物が多く描かれている。殷の大鐃は、トウテツ文など異族神を抑えるような呪性を持っていたのに対し、これは稲の神や水の神に、収穫の祈りを願うような平和的なものだからである。
 自分で全国の銅鐸出土地をまわって書かれた『銅鐸の谷』(大野勝美)からその代表的なものをあげる。

 一、香川県坂出市加茂町、明神原鐸出土。

 昭和八年、加茂町の東側、五夜岳山麓の開墾に着手、翌九年、巨石の近くの土中から、振り下ろした鍬の先に金属が当りそれが銅鐸であった。この山麓には鴨神社という古社あり、出土地点から遠くなく泉があった。
 標高百五十メートルの高所ながら「平坦原の山壁に接するところには清水湧出、二、三ヵ所降雨に際して流れいよいよ豊富なる・・」『古代文化』寺田貞次

 二、和歌山県日高郡南部村を取りまく山の斜面から六個の銅鐸が出土。大久保山、玉谷、雨乞山、久地峠、常楽、下ノ尾の6ヶ所であり、いずれも川を見下ろす山の中腹で、中でも下ノ尾は低い尾根の斜面にあり水田からの此高は十メートルたらず。

 昭和十九年頃、庭先で防空壕を掘っていた時に発見された。大野氏が行った頃には駐車場となりその片隅に出土地を示す標柱が立てられていた。
 ここの南に少し離れた所で、大野氏は記念碑を見た。「古来よりこの地に弘法井戸ありき。通称”向いの井戸”とよび里人こぞりて愛敬せり。幾百年こんこんと沸き出ずる清水は村人の生計を支えその恩徳無量なりき。今般、村道清水谷線農道整備事業改修工事に際し、ここに弘法井戸の遺跡を後世に伝え記念碑を残す。昭和五十八年春 南部川村 晩稲受益者一同」

 三、和歌山県御坊市朝日谷、亀山出土鐸

 昭和十二年、亀山城址近く三個の銅鐸出土。「出土地から南東方(朝日谷の最奥部)、谷の基部には渾々として四時清水の湧水する泉あり、それが朝日谷の灌漑水をなす」森彦太郎調査報告の付記、梅原末治

 四、静岡県引佐郡細江町都田川に沿う滝峰谷より悪ヶ谷鐸、滝田七曲り一号鐸・二号鐸、不動平鐸、穴ノ谷鐸、滝峰才四郎谷鐸の六個(小砂川谷鐸、三方原鐸もここの出土ではないか)。

 大野勝美氏はアマチュアながら、銅鐸に魅かれて出土地を歩いてその場所に立ち、その結果「ある共通点」を感じる。銅鐸を埋める場所がそこでなくてはならなかった理由、それはすなわち「水の湧き出るところ」ということであった。
 大野氏自身の住む引佐町の大量銅鐸出土地がある滝峰谷には何度も行き、何故この場所が埋納地になったのだろうと考えている。

 穀物の豊作を地霊、穀霊に祈ったというのなら、なぜ水田や集落のあるところを選ばなかったのか。台地上なら作業もしやすいだろうに六個(九個)の銅鐸全てが斜面に埋められていた。というのは、斜面に何か目標物があったのかもしれないと滝峰の谷幅約百メートル、全長二、五キロの谷を歩く。

 「夏の暑い日、空は快晴であった。いつものように採土場(滝峰の谷の谷口部で、半島上に突き出た台地の先端が切り取られ、高さ約三十メートルの垂直な崖になっている。そして道路は崖に面している。)の採土場の前の道路を車で走っていたとき、偶然崖のほうを見ると崖の下半分が変色していた。斜面に問題を解く鍵が隠されていると思っていた私は、それを見過ごすことが出来なかった、何だろうと思い、車を止めて調べると、崖のちょうど真ん中あたりにある地層の境から水が染み出し、崖の下半分を湿らせてそのため下半分が黒く変色して見えたのであった。原因は湧水であった。地層の境が水平に走っているため、崖は上下に見事に二分されていた。これだ、これに違いない。」

「斜面にあったものは水ではないか。当時の斜面には湧水地という目標物があったのだ。」

「三方原台地は地層が水平に走っており、上部に水をよく通す礫を含んだ赤土層が堆積し、下部には水を通さない青粘土層が堆積している。したがって台地の上に降った雨は地中に吸われ、青粘土層の上に蓄えられる。それが横に移動して台地斜面から湧き出す。そのため三方原台地の斜面には、多くの湧水地が見られその代表的な例が滝峰不動の滝である。

滝峰の谷には谷の最奥の支谷の奥に、いつ頃からか不動明王が祭られている。滝といっても本格的な滝ではなく、台地斜面から湧き出る水を溝で集めて石樋で下の池に落としているだけである。台地上から十メートル下った地点の横一線上から水が湧き出し、これは採土場の場合と同じである。地層の境がこの位置にあるために斜面の同じ高さから水が湧き出していると思われる。」『銅鐸の谷』P73〜76

 私はこの説にとても納得する。泉のあるところ水のあるところ、そこが聖地だったに違いない。そこで銅鐸の祭が行われたのだ。銅鐸はこのような水の近く、湧水や谷あいにあるのが本来のあり方だったのだろう。流水紋、サギ、蛙、すっぽん、とんぼ、銅鐸に描かれている絵も水と関わり深いものが圧倒的に多い。

 「稲とともに水田にあらわれ、その成長とともに数を増し、収穫とともに姿を消すサギの類が水稲耕作を始めた当初の人々にとって、いかに印象の深い鳥であったかが想像される。それが数ある鳥の中でサギが選ばれ、銅鐸絵画に採用された最も大きな理由だった。」根木修、一九九一年報告書

 サギがついばむ魚も、田にすむコイ、フナであったに違いない。「湿」という字があるが、

「もとの字は濕(しつ)につくり、ケンと水を組み合わせた形で、ケンは日(霊力を持つ玉の形)の下に糸飾りをつけた形で、これによって神を招き、神の顕れることを願う。
 神が天に陟り降りする地で、ケンを拝んで神が顕れることを願う儀礼を行う隰ことを(さわ)と言い、その儀礼の行われる神聖な地を言う。その儀礼の行われる神聖な水辺の地を湿と言う。湿は神を迎える水辺の地の意味から、しめる、うるおうの意味となる。」『常用字解』P262

 古代の人にとって水があるところは、聖なるところ、ケンを拝んでいる人の姿が顕で、神の顕れるところなのであった。


参考文献

大場巌雄『考古学上から見た古氏族の研究』、永井出版企画

前項 | 次項 ページトップへ

since.09.2.18-update.09.4.11 Copyright(c)2009 riqrme All Rights Reserved. リンクフリー
inserted by FC2 system