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契約の箱の伝説

契約の箱

 こうしてキルコスの島に安置された後、今はアクスムにある王が建てた教会に移されたとハンコックは言うのだ。

 契約の箱はエチオピアではタボットと呼ばれ、二万以上あるどの教会、修道院でもタボットが安置されている。そして本物はそのアクスムの礼拝堂「シオンの聖マリア教会」にあり、エチオピア全土にある他のタボットは、この本物の聖櫃のレプリカであるらしい。

 一年に一度、この国で一番大きな祭が一月十八日にある。各々の教会から金銀の布にくるまれたタボットを祭司が頭の上にのせ、そのあとを群集が行列して練り歩く、ティムカット呼ばれる祭である。これはイエスの洗礼を祝う祭であり、その行列が進む様をハンコックが述べているが、それは旧約聖書が描くアークを迎えた群衆の記述そのままである。

 「神の箱を新しい車にのせて<中略>ダビデおよびすべのイスラエルは歌と琴と立て琴と、手鼓[つつみ]と、シンバルと、ラッパをもって、力をきわめて神の前に踊った。」(歴代志上十三章)

 この記述はBC1000年頃のことであるが、エチオピアの黒いユダヤ人=ファラシャと呼ばれる宗教的慣習はソロモンが作った神殿、つまり第一神殿時代に遡る古い正統的なものだとハンコックは記している。

 彼はタナ・キルコスの修道僧に案内されて、タナ湖を見下ろす島の頂きに近い断崖絶壁の端の高台に行き、三本の石柱が立っているのを示される。

 高さ1メートルから1メートル半位の苔むした石の柱で、柱頭の平らになった部分に10センチ位の窪みがある。
「エチオピアに運ばれた聖櫃は、この近くの天幕の中に安置され、その前で犠牲の動物の血を捧げる供犠が行われ、石柱の窪みは供犠の血を入れたところである・アークが運ばれて来た時から、800年間、アークはここにとどまり、1600年前、アクスムに移されるまで供犠は捧げられた。」と修道僧は語ったと言う。

旧約聖書レビ記四章に、神がモーセに示された贖罪の方法が述べらている。

「祭司は指を[供物の]血に浸して、聖書の垂幕の前に、その血を一たび注がなければならない。<中略>その血の残りはことどとく会見の幕屋の入口にある蕃祭の祭壇のもとに注がなければならない」

 タナ・キルコスの僧がやってみせた供犠のやり方とこれまたそっくりではある。
 供犠は聖櫃の安置されている天幕の前で行う、ということが本来神が示したかたちである。
 なぜなら、聖櫃のある天幕は会見の幕屋とも呼ばれ、神は契約の箱の上の二対のケルビムの間に臨在される、とされるからであり、供犠は「主の幕屋の前で捧げるのでなければ、その人は民のうちから断たれるであろう」。(レビ記十七章) とされているからである。

 それ故、BC587年バビロン王ネブガドネザルが神殿を破壊してからは供犠は一切行われなかった。再開されるのは、BC520年、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人が再びエルサレムに神殿を建立してからである。
 AD70年、ローマによって第二の神殿も破壊された後は、ユダヤ教徒の間から供犠の習慣は消滅した。

 「ただ、エチオピアのユダヤ人だけは唯一の例外であり、第一神殿時代のユダヤ教を奉ずる最後の末裔である」(神の刻印198項)

 琥珀の中の虫のように封じ込められ、エチオピアのユダヤ人は他のユダヤ教世界から隔離されて生きてきた、というわけである。

 「なぜ、その一国ははるか遠い土地に移民したのか、その答はケブラ・ナガストにある。この書によれば、移民者はイスラエルの長老の長子たちで、メネリック一世と神殿から奪ったアークに随行してエチオピヤにやって来たからだ」(神の刻印199項)

キリスト教伝来

イエスの死後、使徒たちによって福音が宣べ伝えられてゆくわけだが、その中で、とりわけ美しい物語が、エチオピア伝道にかかわる場面である。

「しかし、主の使いがピリポにむかって言った。『立って南方へ行きエルサレムからガザへ下る道に出なさい』そこで彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官であるエチオピア人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についていた所であった。
彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。御霊がピリポに『進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい』と言った。そこでピリポは駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞こえたので、『あなたは読んでいることが、おわかりですか』と尋ねた。
 彼は『誰かが、手びきしてくれなければどうしてわかりましょう』と答えた。そして馬車に乗って一緒に座るようにと、ピリポにすすめた。彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった。

  『彼は、ほふり場にひかれてゆく羊のように、また、黙々として、
  毛を刈る者の前に立つ小羊のように
  口を聞かない。
  彼はいやしめられて、
  そのさばきも行われなかった。
  誰が、彼の子孫のことを語ることができようか。彼の命が地上から取り去られているからには』

 <中略>ピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。道を選んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官が言った、『ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、何のさしつかえがありますか』。
 <中略>ピリポと宦官と、二人とも、水の中に下りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。
二人が水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官は喜びながら旅を続けた。」
(新約聖書使徒行伝八章)

 エチオピアのユダヤ教徒=ファラシャは1980年代イスラエルへ移民、残りの人は、80年代半ばの飢饉で死んだりしてわずかの人が残っているのみという。


希望に満ちて移住したであろうエチオピアのユダヤ人たちであるが、つい最近の彼らのことを新聞で報じているのを見つけた。(今年の2月20日前後の読売だったと思う)
 それによると皮膚の色などによる差別や偏見のためイスラエル人に受け入れられておらず、イスラエル政府も彼らの血は献血などでも捨てていうるとのことであった。

人類の発祥地と言われるエチオピア、そこからチグリス・ユーフラテスの河口に辿り着いた人類が文明を築き、やがてユダヤ教が誕生して、そこで生まれた聖櫃がまた元の地に戻る。
そのエチオピアに聖櫃が長く留まって、聖書の記述そのままに、時代から取り残されたかのような祭をその地で行っている。
 こうした時代を超えた因縁、関わりが、歴史という物語の奥深さ、面白さではないかと思うのだ。そして新聞の記事のような現実もまた歴史の一面である。


参考文献

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