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契約の箱の行方

契約の箱

北イスラエル滅亡後、残っていた南ユダの王ヨシヤは、神殿の伝統を復活させようとした信仰心のある王であったが、彼が契約の箱について言及しているところがある。

「ヨシヤはエルサレムで主に過越の祭を行った。即ち正月の十四日に過越の羊をほふらせ、祭司にもその職務をとり行わせー <中略>また主の聖なる者となって全てのイスラエルびとを教えるレビびとに言った、『あなた方はイスラエルの王の王ダビデの子ソロモンの建てた宮に聖なる箱を置きなさい。再びこれを肩にになうに及ばない。』」(歴代史略下三十五章)

これはヨシヤ王治世十八年目(BC622年)で、契約の箱に関する最後の記述で、ソロモンの治世(BC976〜931)までに聖櫃について述べたところが200箇所に余るのに、これ以後契約の箱について述べたところはない。
王のこの言葉は、聖櫃がすでに神殿の至聖所になかったことを示している。
安置されてあったなら、それを神殿に据えなさい、とは言わない。肩に担わず安置せよ、という命令は、至聖所になかったから戻すように言っているのである。

北イスラエル滅亡後、南ユダも迫りくる敵の手から守るため、聖櫃はレビびとによって神殿から運び出されたのであろうと思われる。
ヨシヤの後、王は四人交替し、22年後南ユダは滅びるが、聖櫃についての記述は何もない。
北イスラエルにも南ユダにも、神は預言者を何人も遣わして警告と悔い改めを迫っているが、その中の一人、エレミヤがこう言っている。

 「主は言われる、あなた方が地に増して多くなる時、その日には、人々はかさねて『主の契約の箱』と言わず、これを思い出さず、これを覚えず、これを尋ねず、これを作らない」(エレミヤ書三章)

これが、契約の箱に言及している旧約の最後から二番目の記述である。

ここで神はユダヤ人たちに語りかける。  「背信のイスラエルよ、わがもとに帰れ、わたしは慈しみ深いものであるからいつまでも怒ることをしない。」と。

この一説は、神の慰めと慈悲を語り、地上にイスラエルの民が増す時が来ること、その時にはもはや契約の箱がないことを嘆くことはない、と言っているのであり、この頃すでに神殿至聖所に聖櫃が失われていることを示している。

それでは契約の箱は、一体どうなったのだろうか。それではここからはハンコックさんにご登場願おう。
彼は「アークはエチオピヤに運ばれた。」と言っている。

ハンコックによると、エチオピアに13世紀から伝わる「ケブラ・ナガスト」(王たちの栄光)という文献があり、それによると、聖櫃はソロモンとシバの女王の間の息子がエチオピアに帰国する時、その護衛の者たちの手によって神殿から運び出されたという。

旧約聖書にもソロモン王のもとにシバの女王が訪問する次第は述べられているが、このエチオピア伝承によれば、二人の間に息子が生まれて、その子は母のもとで成長したが、20才になった時、父ソロモンを訪ね、帰国する際ソロモンから任ぜられて護衛にあたった者たちがアークを盗んでエチオピアまで持ち去った、というのである。

シバの女王国はアラビアにあった、というのが定説であるが、エチオピアの人々は、エチオピア皇帝はソロモンの直系の子孫であるとし、ケブラ・ナガストの伝承を信じている。

1974年共産革命によって廃位させられたハイレ・セラシエ皇帝は、ソロモンとシバの女王の子、メネリックから数えて225代目の直系の子孫として国民から尊敬されていたとのことである。

BC926、年ソロモンの死後、その息子レハベアムの時は、エジプト王シシャクがエルサレムに攻め上り、神殿の財宝、王宮の財宝をすべて奪い取る。
BC796年、二つに分かれた北イスラエルと南ユダの間で戦いがおこり、イスラエル王ヨアシはユダ王を討ち、エルサレムに来て神殿と王宮の宝物を奪う。
BC598年、バビロン王によって神殿と王宮の財宝を運び出され、ソロモン王がつくった金の祭具はことごとく切り刻まれる。

しかし、これら略奪された品々のリストにも、やはり契約の箱の記述はない。

契約の箱は本当に持ち去られたのだろうか。持ち去られたとすれば、何物によって何の目的で何処にだろうか。

契約の箱を荷った一行は、エルサレムからガザ、ガザからエジプトへ着き、ナイル川に沿ってすすみ、その支流タカゼ川をさかのぼるルートをとって、エチオピアにあるナイルの源、タナ湖に運ばれたというのがハンコックの推論である。

タナ湖は3700万平方キロメートルに及ぶ広大な内陸の海で、ここから青ナイル、白ナイルの水が供給される。
この湖の周囲と島々に20に余るキリスト教修道院があり、その中の一つタナ湖東岸の島に運ばれたというのである。

ハンコックは、その島タナ・キルコスにボートで四時間かけて訪れている。
「水面から急峻に立ち上がったその島は濃い緑の潅木や花咲く木々、背の高いサボテンにすっかりおおわれ、高い頂には丸い草ぶき屋根の住居が認められた。ハチドリ、カワセミ、鮮やかな青色をしたムクドリが矢のように飛んで、入り江の岸辺の砂浜に、一群の修道僧たちが立っていた。」(神の刻印295項)

この島に契約の箱が800年間安置された後、今はアスクムにある王が立てた教会に移されたと言う。

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